小笠原父島(旭山・中央山)・母島(乳房山・大剣先山)の旅

期間:2012年4月2日(月)~6日(金)



報告:渡辺

 4月は人事異動の季節である。満開のオオシマサクラに見送られて竹芝桟橋ターミナルに着くと、「小笠原赴任の皆様」と書かれたプラカードを持った人が駆け回っている。待合室の一角では、若い男女3人が前に並び、送別のエールを受けている。きっと新任地へ向かう先生ではないか。その他にもそのようなグループがある。
 4月2日(月)午前9時 おがさわら丸に乗船する。大勢の見送り客とデッキの乗船客とのやり取りが演歌的であるが、さすがに軍艦マーチや紙テープはない。午前10時、出港。竹芝桟橋は隅田川の河口に当たるせいか、スクリューが回転するとヘドロが渦巻き、ドブの匂いが漂ってくる。
 竹芝桟橋見送り
ベイブリッジを潜り、お台場、船の科学館を左に見やりながら東京湾を進むと、右手に頻繁に離発着する羽田空港が見えてくる。海側からみる羽田は巨大である。湾内は右側運行となるので、横浜、横須賀などの市街地がよく見えた。観音崎灯台を出るまで約2時間かかった。東京から小笠原まで1000キロ、25時間30分の長い船旅の始まりである。八丈までは島影が見え隠れするはずだが、久里浜を出たところで早起きのつかれもあって船室に入ると暫し眠りについた。午後5時30分八丈島手前雲間に太陽がのぞく。午後6時30分レストランで島塩ステーキ(1300円)の夕食をとる。7時過ぎ、八丈島沖を通過。日も暮れて飯も食い、やることがない。後はひたすら寝るだけである。エンジンの音をBGMかわりに寝るが、背中は痛い、肩は凝る、腰は痛い、寝ることがこんなにつらいとは思わなかった。夜中に起き出してシャワーを浴びる。

八丈島手前の夕日__________

船内のレストラン
 4月3日午前7時 22.4ノット、針路167度、鳥島を過ぎて、午前9時聟島が左手にかすかに見え始めた。アジサシ、コアホウドリ、ミズナギドリなどの水鳥が海面を飛翔している。陸が近くにある証拠である。10時に聟島を通過する。午前11時40分、10分遅れで父島の二見港に接岸する。昼食を島の名物である「島すし」とした。1,000円である。沖さわらを醤油に漬けた漬け寿司でわさびでなくカラシである。昔は冷凍保存ができなかったので、塩や醤油に漬けて保存した名残りという。またわさびもなかったという。ほかに青海がめの寿司もあったがさすがに食べる勇気はなかった。
沖さわらの漬けすし「島すし」1000円
 小笠原を最初に発見したしたのは、信州深志の小笠原貞頼といわれている。1830年最初に欧米人が住み着いたという。咸臨丸の小笠原探検や明治政府の再開拓で日本人が定住するようになり、昭和の初期が最盛期で現在の3倍の人口があったという。終戦時に占領されて、昭和43年に返還された。現在は父島が2000人、母島450人程度といわれている。
 昭和47年4月に東京―父島間が椿丸(1040トン)で、48年4月に父島丸(2616トン)54年4月おがさわら丸(3553トン)平成9年3月現在のおがさわら丸(6700トン)になった。父島―母島間は、昭和51年5月週3便で運行が開始され、平成3年6月ははじま丸(490トン)で現在にいたる。おがさわら丸の運行に合わせてははじま丸は運行されるので、自然遺産になってからは母島への渡航切符が入手難となり、トラブルが発生してるという。住民は、建設、小売、サービス業への就労が7割を占め、公務員も2割程度である。農業や漁業はわずかである。農作物は母島の方が父島を収穫量、生産額とも上回っている。
 小笠原の概観はこのへんとして、食事を取りレンタカーを借りて島内観光とした。父島はゴジラが立ち上がって、首を後ろに振り向いたような形で、二見港はその肩越しにあたる位置である。ここを拠点に最初北側の長崎展望台と釣浜展望台に行く。
_
父島入港風景
_
メインストリート

村の木タコの木の実
 父島は男島で周りには兄島、弟島、甥島など男名の島がある。特に兄島との瀬戸は兄島瀬戸と呼ばれ流れの速い海域である。瀬戸のくぼんだところの兄島海域公園は流れも穏やかでシュノーケル泳ぎや熱帯魚と戯れることができる。母島には、姉島、妹島とか姪島とかがある。
_
釣浜海岸
_
長崎展望台

兄島海域公園 熱帯魚
父島の島の背骨にあたるところは200から300メートルの山が連なっている。一番高い山は中央山(319)でアカガシラカラスバトの生息地である。
_
北の方の旭山(267)
_
オガサワラビローの密林

頂上からの二見港
南に下ってきて初寝浦展望台に回る。戦禍の痕が残る場所のひとつである。野生化したヤギが尾根にいた。
_
米兵が首を持ち帰った尊徳像
_
旧海軍の建物

初寝浦海岸
文字とおり島の中央に位置する中央山、319㍍の低山である。山のテッペンに回転式の機関砲の台座が赤く朽ち果てここにも戦禍の痕をみる。アカガシラカラスバトの生息地である。
_
回転式機関砲台座
_
中央山頂上

頂上からの展望
山から海岸線に下りてくる。小港海岸。ディゴの華々しい花が満開である。車を返して三日月山の夕日を観に行く。島の北西に位置し遮るものはなしの展望である。眼下の海ではザトウクジラがブロウ(息継ぎ)や尻尾を海上に出したりしている。
_
小港海岸ディゴの花
_
展望台からの夕日

夕日
 4月4日 午前9時、ドリーム号Ⅲホエールウオッチングに行く。船の長さ13メートルほどの小船での出船、外洋に出るとうねりがあって木っ端のように揺れる。ガイドの女の子に大丈夫と聞くと、こんなの凪のうちと軽くあしらわれる。港を出てさもない時間にクジラに出会う。ブリーキングは観られなかったが、何回も出会えて感激である。
_
シュノーケル装備
_
クジラの浮上水平線下2頭

クジラのブロウ11時の方角
父島の南にある南島に渡る。父島の北から東の海岸線をぐるっと回ってきた。途中世界でも珍しいハートロックを観て、「ラピエ」と呼ばれる石灰岩で出来ている南島に上陸する。1日100人の制限を受けている島である。鮫池に船を泊めるが、瀬戸を横切る時に、船のバランスをとって一気呵成に突入する。真っ白な浜辺の扇浜や汽水の陰陽池などがある。浜辺のいたるところに海鳥の巣穴がある。ヒロベソカタマイマイの半化石が砂浜に露出して異様な光景である。
_
ハートロック
_
ハートロック

扇浜
小笠原には多くの固有種がいる。そのひとつのオオコウモリを観たくて3500円の大枚をはたいてナイトツアーに出かける。羽を広げると80から90センチの大きさである。顔は熊そっくりで鍵ツメが長くて大きい。満月に照らされて飛ぶ影がヤシの木に映り幻想的な光景を見られた。ほかにオカヤドカリを見る。大きさは10から15センチほどである。
_
島の尾根から扇浜
_
ヒロベソカタマイマイ半化石

半化石
_
小港海岸の小亀(模型)白い卵殻
_
オカヤドカリ

ヤシのオオコウモリ
グリーンぺぺ(夜光の菌)は時期が早くて出ていない。冬の大三角形や金星とスバルの接近、土星の輪を観測したりする。
 4月5日午前7時30分 父島から母島に渡る。ははじま丸で2時間の航行。父島から南に50キロ離れてるから島の樹叢もちがって緑が黒に近くなってくる。海上にはカツオドリが飛び回っている。沖港9時40分到着。450人しか住んでいないから港も小さく、人影もまばらである。観光協会に入山届けを出して、レンタカーを借りて、島最高峰の乳房山(463㍍)の登山口に向かう。登山口を入ると、葉先の鋭く尖ったトラノオ?が道の両側に生い茂る。一帯を過ぎると南洋独特の樹木が密生していてジャングルの中を歩くようだ。いろいろ木の名前がついているが覚えきれない。途中500キロ爆弾が落ちたという陥没地に大きなマルハチがあった。

登山口

トラノオ?

マルハチ
中間点と思われるところで巨大なガジュマルのトンネルに出会う。以前人が住んでいたところで日陰や防風のため屋敷のそばに植えられたという。井戸の跡らしき石があった。このガジュマルは屋久島で見たものより遥かに凄みをもっている。残り1キロを過ぎると切り返しの鉄梯子があり、密生度は深まり日が差さなく、急な登りになる。さらに鉄梯子が出て頂上である。途中はオオシダやわかめのようなオオワタリが植生している。母島にはムニンヒメツバキ、ハハジマノボタン、ムニンシュスランなど多くの花があるが開花期ではなかった。
_
登山道 テルハボク
_
オガサワラビュロウ

タコの木
_
ガジュマルのトンネル
_
頂上

頂上からの展開
帰りは、日当たりのよい南の尾根伝いになる。こころなしか密生度も浅くなって植生も往路と違っているように感じる。ヒメシャラなども出てくる。途中メグロが近くまで下りてきて被写体になってくれたが、うまく写らない。大剣先山の見晴らしを経て午後2時20分に登山口に戻る。約4時間の乳房山の回遊登山であった。
_
頂上からの沖港
_
巨大な?

茶屋の道標
_
コブの木
_
ビュロウ

山中にあった機銃の台座
_
南登山口

バックミラーとメグロ
母島は、南北に細長い島で沖の港は南の南側に位置している。住民の多くは沖港がある元地や静沢で暮している。島の南のはずれは南崎である。車は海岸の手前でストップとなり、そこが都道最南端となる。海岸までは徒歩45分かかる。また近くには日本一南の故郷富士である小富士がある。徒歩1時間
_
都道最南端
_
メカジキ47キロ 約6万円

アオリイカ13キロ 7千円
反転して北に向かうと標高200㍍地帯の山岳道路となる。整備はしっかりしていて運転は安心できる。南西に面した海岸を見ながらの運転でいたるところにビューポイントがある。手付かずの石門を過ぎると東に面して東港がある。かって捕鯨の基地として使われていたそうだが今は避難港しか役割を果たしていないらしい。北には北港がありコンクリートの突堤らしきものが海に突き出している。打ち寄せる波に洗われて小石がカランコロンと鳴いている。過去の歴史を思うと余りにも悲しく聞こえる。北港のある北村には戦前は450人前後の人たちがカツオ漁をしていたそうで学校もあった。戦争のため強制疎開をうけて長い間放置していたためガジュマルなどの野生種に生活の痕跡を飲み込まれた悲しい歴史がある。北村小学校の跡地はガジュマルの林と化している。母島は桑の大木が目に付き、桑の木山と名付けられたところもある。
_
大きな桑の木がある桑の木山
_
北村の案内

北港
_
北港

ゲットウ
このところで村越さんが黒っぽい大きな鳥が道路を横切ったという。場所、格好からしてアカガシラカラスバトのようである。小笠原に来た目的のひとつでもあるから残念である。 小笠原は、大陸とつながったことのない貴重な島でそこに生息する動物や植物は固有種が多く、23年6月には世界自然遺産に指定された大きな理由である。開拓期に持ち込まれた食物や樹木、ヤギ、ネコ、グリーンアノール、アフリカマイマイなどに固有種が脅かされており、その駆除と水際防止に懸命の努力をしている。荷物や靴底の清掃、洗浄が義務付けられている。
 今回の旅で観られた固有種は、オガサワラオオコウモリ、ハハジマメグロ、ハシナガウグイス、在来種のオガサワラトカゲ、残念だったのはアカガシラカラスバトである。植物はマルハチが印象に残っているが、開花期でもなかったのでシマホルトノキ、ムニンノボタン、モンテンボク、ムニンツツジ、アサヒエビネなど確認できなかった。
 4月6日早朝散歩をしていると本町にある大きなガジュマルの木の下で、ハイビスカスの花のレイを作っている老夫婦と中年の女性に行き会う。老夫婦は三年前に千葉から移住してきたという。中年の女性は30年前に東京から母島が好きでやってきて、漁師さんと結婚したという。毎日変化があって楽しくて仕方ないという。漁師の夫はメカジキ漁が主だが漁が減ってきて心配だという。今は父島も母島もクサヤを作らないのでトビウオは捕っていない。母島(父島)にはパチンコや信号もなく、食料品を売る前田商店、JAの売店、漁協の売店があるくらい。洋服などは通販で買うか内地の知り合いに頼むらしい。お産は島の診療所で診察を受けるが最終的には内地の産科にかからなければならない。それでも島は乳幼児が増えている。父島のようにせかせかせず時間がゆったりと流れている。そこに母島の魅力を感じるのかもしれない。
_
パパイヤ
_
名前わからず

母島メインストリート
 母島にも人事異動の季節である。小中学生2人が内地に転校するらしい。全校挙げて送別会を港で行う。内地に転勤する都庁の職員が加わり岸壁は壮大な送別会の会場と化して行く。沖港を午前10時30分に父島に向かって岸壁を離れた。カツオドリや飛び魚の飛翔を見ながらうねりのある外洋を戻った。父島でも大勢の送別会が開かれ、無形民族文化の南洋踊りや小笠原太鼓が賑やかに盛り上げている。島民の多くが見送りに訪れ、遊漁船が外洋まで伴走し、うねりのある海に若者たちが飛び込むなど感動的なシーンに立ち会えた。こんなシーンは船ならではのこと、やはり船旅は演歌の世界である。
_
転校生と父親
_
母島の見送り

船上
_
父島南洋踊り
_
小笠原太鼓

自衛官の送別式
_
島民総出の見送り
_
伴走船の見送り

一路東京へ
4月7日午後3時40分竹芝桟橋に戻る。今回の企画は村越夫妻のご尽力で、自分はただ付いていっただけ感謝でいっぱいである。小笠原は週一便でマックス千人が入島すれば宿泊設備も少ないので混乱も起きているらしい、自然を保護しながらの観光であるから将来は入島制限も検討されるだろう。

船賃 特2等 東京―父島(往復) 71780円
父島―母島(往復) 10280円
宿泊 父島  大洋荘 6500×2泊=13000円
レンタカー 4000円
ドルフィンツアー 7200円
その他・食事代 20000円
合  計 約126000円

4月2日 竹芝桟橋午前10時出港――3日 父島二見港午前11時40分
4月3日 父島見学
4月4日 シュノーケルとホエールウオッチング 南島入島 ナイトツアー
4月5日 母島へ 乳房山登山 島内見学  母島泊り
4月6日 母島から父島へ 午後2時

同行 村越智子様
村越春夫様


_
父島枕状溶岩
_
豪華客船

ハートロック
_
母島グリーンアノール駆除対象
_
貨幣石 貝の化石

つぶし石
_
沖港待合所
_
きれいな花

母島6つの旧町名のひとつ

2012.4.8記録




トップに戻る      山行記録に戻る