壱岐・対馬の旅

期間:2016年10月16日(日)~18日(火)



報告:渡辺

 壱岐・対馬は長崎県である。しかし位置関係としては福岡県のエリアである。壱岐・対馬への船便は長崎からは一本もなく、すべて福岡、佐賀からの船便である。行政は長崎で経済圏は福岡と何とも奇怪な関係で、島民の意識は福岡県人である。観光客としても何か変な感覚である。壱岐までは福岡からおおよそ75キロ、対馬は壱岐から更に75キロの距離である。しかし韓国釜山までは対馬から50キロの距離である。フェリーで福岡から壱岐まで約2時間半、対馬は更に2時間10分の船旅である。高速船だといずれも1時間10分である。壱岐の島は魏志倭人伝に登場する「一支國」、対馬は朝鮮通信使、元寇の襲来、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦等の歴史の島で、そんな歴史に興味がひかれて旅をすることになった。ツアーだったので自分が行きたい所に行けず、やや不満足な旅であったがそれなりに得るところはあった。

壱 岐(10月16日―17日)
 壱岐の郷の浦港に着いたのが午後5時前、小雨が降っていたが気になるほどのものでない。島で一番高い岳の辻展望台に向かう。夕方と小雨が煙っていたので眺望は良くなかったが、島内で一番高い所からは対馬や佐賀の呼子・東松浦半島が望める。展望台の近くに「のろし台」があった。663年の白村江の敗戦から国防の一つとして、のろし台が対馬・壱岐に造られて、そのひとつの遺稿が展望台に残っている。宿は湯ノ本温泉の国民宿舎である。島内の歴史を紐解くと、弥生時代三大遺跡のひとつ「原の辻遺跡」環濠集落がある。この遺跡は、魏志倭人伝に記された国の中で、国の場所と王都の位置が両方特定されている国内唯一の遺跡という。卑弥呼伝説の地でもある。古墳が多く270基が残っていて、ほぼ円墳という。観光としては島の中央部にある「鬼の岩屋」が有名である。蒙古による全島占領(少弐資時の墓、元寇の碇石、新城の千人塚などゆかりの遺跡)、室町時代の倭寇貿易の前進基地、江戸時代の捕鯨基地等、朝鮮―日本を結ぶ交通の要衝として栄えた。平地が多いが多くは埋め立て地という。人口は27千人、パチンコ、ドラックストー、コンビニ、スーパーもあり、離島の人口密度は1番とか。電力の鬼といわれた松永安左エ門は印通寺の生まれである。また麦焼酎発祥の地でもあり多くの蔵元がある。明治から昭和にかけて国防の前線基地として暗い時代を過ごした。島の見晴らしの良いところには、砲台が築かれ、明りが漏れるといけないということから開発がされなかったという。湯ノ本町にある猿岩の近くに東洋一という砲台跡がある。戦艦土佐の巨大な砲身(18.8m)が据え付けられていた黒崎砲台跡である。戦艦土佐は進水式の際にくすだまが割れず、不吉であるという理由で実践に配備されず、その砲台が黒崎に据え付けられてという。土佐は四国沖で撃沈されたという因縁ある砲台である。深さ10mの穴だけが昔を物語っている。構築されたコンクリートは、手練りでセメントに混ぜた小石は小学生が海岸で手拭やハンカチに拾い集めたと言われ、旧陸軍作った1の門(慰安のためのエリア)2の門(軍事区域)が今でも狭い道路の両側に建っている。南の郷の浦町は、壱岐の中心地で、西の湯の本は唯一の温泉地で猿岩の景勝地がある。北の勝本町は対朝鮮の前線基地の中心であって城山がある。奥の細道の曾良終焉の地である。東の芦辺町は美しい清石浜、左京鼻があり、海に浸かっているはらほけ地蔵がある。一支國博物館や原の辻遺跡は隣町の石田町で、松永安左エ門の生まれた印通寺はこの町である。1859年3月17日、日和もよく五島沖に出漁した漁船が突然の時化で53名が遭難死した。春に吹く突風を地元の人々は「春一番」と呼ぶようになり、「春3番」まであるといい、気象用語に取り入れられた。ちなみに秋に吹く「木枯らし1号」は春一番の対として気象庁が造ったという。郷の浦港の近くの元居公園内に「春一番」の碑がある。
のろし台 宿の夕食 国民宿舎 壱岐島荘 黒崎砲台跡 深さ10m
猿岩 鬼の岩屋 内部 左京鼻 左京鼻から清石海岸
はらほけ地蔵 原の辻弥生遺跡 ほぞを使った建築工法 ネズミ返しの穀物倉

対 馬(17日午後―18日)
 10月17日、郷の浦港からフェリーで対馬の厳原へ移動する。対馬は草鞋のように南北に細長く、東西の幅は狭く「船越」という地名が残るように船を陸で運んだというほどである。浅茅湾は入り江が深く内陸部に切り込んでいる。太古の昔は大陸と地続きであったが、氷河が解けて海面が上がったため離れ小島になった。そのため入り江がとにかく多い。南の端が豆酢﨑、北の端が比田勝(鰐浦)、南北おおよそ150キロ足らずの島である。佐渡、奄美大島に次ぐ離島3番目の大きさである。政治経済の中心が厳原であり、人口3万2千人である。今宵の宿は北のはずれの比田勝にある。厳原から約80キロ超、バスに揺られること2時間半である。時間がかかるのは、対馬は山また山で、9割が山林である。国道は山間の狭い道で、トンネルが次から次へ現れる。ガイドの説明によると50本超あるという。比田勝は国際港で朝鮮からの観光客が高速船でやってくる。近くの鰐浦の集落は朝鮮通信史の最初の寄港地である。春になるとナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の真っ白な花が集落を染め飾るという。ヒトツバタゴの最大の自生地である。宿から30分程の鰐浦の高台からは韓国の釜山が見える。海栗(ウニ)島の自衛隊レーダーサイト越しに釜山の夜景がきれいに見えると行ったが、生憎の霧の夜だった。韓国までの距離は約50キロである。
 対馬は、中世から近世にいたる700年に亘り、支配者の交代が一度もなかった。宋一族が支配していたが苦難の連続である。朝鮮と日本の中継地、豊臣時代の交渉役・戦役、徳川時代の国交回復交渉(柳川一件事件・国書書き換え事件)・朝鮮通信使接遇役、明治時代から昭和時代の軍事の最前線基地等である。苦難の道であったが、その時その時の功績が認められて「宗家」は継続維持されてきた。その証が萬松院(宗家の菩提寺)の宗家累代の墓である。19代義智(初代藩主)を菩提するために造られた墓所であるが、36代までの墓がある。鬱蒼とした林の中に最盛期の墓は3mに近い大きさで豪壮であり、長州の毛利家、加賀の前田家と並ぶ日本三大墓所のひとつである。長州、前田は大藩であったが宗家は10万石であった。大藩ではなかったが宗家の意気を示した資産である。境内に「諫鼓(かんこ)」がある。君主に諫言しようとする時打ち鳴らすつづみで、つづみが打ち鳴らされない時は治世が良いとの事から、「かんことりがなく」の故事の元といわれる。ここで売られているイモ羊羹は絶品、日本ミツバチの蜜で練られたイモは、形容しがたい舌触りと蜜の香りが見事なコラボである。萬松院にしか売っていない。南にある白嶽山が島内で一番高く600m超、北の御岳が次でこの麓はツシマヤマネコの生息地である。入り江が多いからどこも景勝地である。島の中央部からやや南に属する入り江が切り込んでいる地に明治時代軍艦を通すために掘削したという万関の瀬戸がある。その時は水深が3mほどしかなく、大型軍艦の航行はできず水雷艇が日露海戦に利用した。浅茅湾の奥に和多都美神社がある。日本で最も古い海の神さまで竜宮伝説が残されている海宮で、汐が満ちてくると神社や社務所の床下まで満ちてくる。我々が訪れたときは大潮の満潮時で汐が押し寄せていた。本殿正面の5つの鳥居のうち2本は海中にあり、汐の干満によって様相が変化する。宮島の大鳥居や神殿の造りはここがモデルという。和多都美をPCで転換すると海神となる。烏帽子岳の展望台は遮るものが何もなく、360度全方位展望のビュースポットである。厳原の街には、朝鮮工法といわれる「かがみ積」という見た目を重んじた石垣を回した武家屋敷が多く残っていて(石垣と門構えであるが)、城下町の面影をしのぶことができる。中心部に2つの城跡がある。宋氏の館であった金石城と市街地を挟んだ北東隣の桟敷原館を合わせて厳原城という。金石城址には2門の櫓門が復元されて、隣の清水山城には対馬歴史民俗資料館があり、宋氏の膨大な資料が保管展示されている。桟敷原館跡は陸上自衛隊対馬駐屯地である。古代山城としては、金田城がある。朝鮮式山城の築城で白村江の戦いで敗れたことを重視した天智天皇が築城を命じたという城で、国防の最前線を垣間見ると言われているが、今回は見学ができなかった。対馬に「くろべえ」という珍味がある。サツマイモ10割のソバのような食べ物である。説明を受けないとサツマイモとは分からない。対馬・壱岐は真珠の産地である。志摩半島、宇和島、対馬・壱岐が三大産地という。入り江には真珠養殖イカダが多く、豪邸は真珠御殿と説明された。
 対馬は700年に亘り支配者が交代しなかったので、家柄を証明する古文書がけた外れに多いという。国防の最前線という立ち位置はいつの時代になっても変わらず、近年まで国防以外の開発は遅れて国道が全島開通したのは昭和43年という。
 今回はクラブツーリズムの旅である。天気はまずまず、気温は少し動くと汗ばむほどで寒さを心配して用意した上着は、東京に帰ってから重宝した。

2016.10.16-18
 同行者民子、勝子

厳原港 GPSの標準機 ロシア海軍遭難兵 救助の井戸
韓国眺望所 朝鮮通信使行程図 厳原武家屋敷 対馬藩初代宋義智
和多都美神社 海に浸かる鳥居 烏帽子岳からの眺望 水雷艇が通った万関瀬戸
万関大橋 対馬南部特有石屋根小屋 見事な石垣 武家屋敷
萬松院 墓所参道 墓所


壱岐・対馬 写真集
2016.10.16-18

壱 岐
壱岐・郷の浦港 壱岐牛の陶板焼き 朝の散歩のカタツムリ ゴリラかな 猿岩
一支國博物館を望む 原の辻遺跡 見張り台 宿からの朝の月 熱帯魚が泳ぐ海 湯ノ本
左京鼻の海岸

対 馬            
ウニ島の航空自衛隊基地 朝鮮通信史殉難の碑 和多都美神社境内 拝殿
厳原の昼食真ん中イカの卵 武家屋敷に教会 かんことりがなく 諫鼓 萬松院 本堂

 厳原でいただいた昼食は、鯛飯、刺身、イカの卵(これが珍味)加えてサツマイモのうどんで
あってうどんでない 何とも言い難い「くろべえ」である。余りのおいしさに写真を撮るのも忘れ
ました。
朝鮮王国からの貢ぎ物 境内と墓所の水路 墓所の一角 見事な石囲い
県指定 大杉 墓所中の滝 初代藩主義智の墓 36代最後の当主

 対馬に行って萬松院に行かないでは対馬を語れず、と言われる。本堂は明治12年に寄進されたものである。正門は対馬最古の建物である。内陣の本尊その他の汁器には、室町、鎌倉時代の作品がある。さらに皇室より賜った萬松精舎の額、朝鮮王国より贈られた三具足徳川歴代将軍のお位牌などがある。
萬松院 正門 清水山城址 資料博物館 金石城址 再検された櫓門
朝鮮通信使接遇の場



    


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