天狗党 下仁田の戦い

期間:2017年7月9日(日)



報告:渡辺

 藤田小四郎は、元治元年(1864)3月、筑波山で挙兵した。開国によって安い綿花が入ってきて、北関東の農家が悲惨な状態に陥っていることを憂慮して攘夷を実行しようとしたため、開国を判断した幕府と対立した。天狗党の挙兵については評価が分かれるところあるが、挙兵時の目的がその後の水戸藩内の情勢変化で大きく異なり、結局は追討の憂き目を負うことになる。その一つに下仁田の戦いがある。今回の旅の基となったのは伊東潤「義烈千秋 天狗党西へ」である。本書を手元に置きながら下仁田の戦いの場を訪ねた。下仁田の農家は、麻作りや養蚕で生計を立てていたが、北信の米をこの地で精米するようになった江戸中期以降は商家が増え、木材や木炭なども含めた物資の中継場として栄えた。(本書から)そして天領であった。天狗党が下仁田に入った時には代官所の役人は逃げ散ってしまった。そんな下仁田に小坂峠を越えて入った天狗党は、本陣の桜井弥五兵衛宅に陣を置いた。2017年7月9日、下仁田ICで上信越自動車道を下り、中山道脇往還道(国道254号)を西に進む事20分、下仁田役場を過ぎて下仁田資料館の案内板が見えて二股の交差点を右に進むと山際公園が右手に見えてくる。下仁田の天狗党に関する資料はネットで調べた程度でどこに何があるか全然分からない。まず、久保田藤吉と斎藤仲次が眠る本誓寺を探そうと山際公園の先の信号を右折すると、偶然にも本誓寺が目の前にあった。
 下仁田の戦いは高崎藩が面目をかけた戦さである。高崎藩は下妻と額田原の戦いで面目を失っており、国境も近いのでここで取り逃がしたら面目が立たないという窮地にあった。高崎藩は、梅沢峠にいた天狗党の哨戒部隊を蹴散らして下り、下小坂の名主であった里見治兵衛宅に本陣を置いた。天狗党の本陣との距離は約5百㍍(5町)である。この下仁田の戦いで高崎藩は36名が戦死し、天狗党は4名の戦死であった。
 本誓寺は、高崎藩36名が仮埋葬された浄土宗のお寺である。激戦地の一つ安導寺の合戦で戦死した天狗党久保田藤吉、伊東仲次の墓がある。ここには佐川一信元水戸市長が献木した二本の梅の木がある。本誓寺の前は伊勢山が迫っている。この伊勢山の尾根伝いに武田耕雲斎の次男で武田魁介は、熊野山突端まで移動して高崎藩本陣に銃撃を加えた。伊勢山の裾野を上ってゆくと、天狗党が下仁田に入るために越えてきたという小坂峠に出会う。

小坂峠には、加藤浩一元水戸市長が建立した石碑がある。

下仁田の地形は、中山道脇往還(姫街道)を挟んで伊勢山、熊野山という屏風のような山系を背負い、西に開けた平野部が市街の中心部になり、その先に西牧川が貫く。桜井本陣は中心部に、里見家は西原間道の先にある。里見家の周囲は桑畑であったようで、その桑を刈り払い見通しをつけての激戦であった。天狗党約1千名に対し高崎藩は210名ほどの兵力であった。高崎藩は洋式大砲と訓練された砲術で優位にたっていたが、武田魁介率いる一隊が高崎藩の雄藩である小幡藩の旗を翻して、高崎藩を油断させ山上から高崎藩本陣に銃撃を加えたことでここでの戦いが雌雄を決した。下仁田戦争は、午前4時から6時までが伊勢山下から高崎藩本陣となった里見家にかけて、午前6時から8時までが安導寺村において、つごう4時間に及ぶ壮絶な戦いだったと本書は記述している。
 本誓寺でお参りしていたら、おじさんが天狗党のお参りかと近寄ってきて、いろいろ下仁田の話をしてくれた。天狗党の史跡を探しているのだが案内できませんかと、図々しくお願いすると「ああ、いいよ」と言って、案内を引き受けてくれた。このおじさんは本誓寺の近くに住まう「黒沢さん」である。黒沢さんのご厚意のお蔭で回りたい史跡や小坂坂峠まで案内いただいた。案内ついでに、世界遺産の荒船風穴まで足を延ばすことができた。
2017.7.9

◇上掲の図の番号に従い史跡を紹介
天狗党が本陣を置いた桜井家

1.野村丑之助の墓
野村丑之助は、田丸稲之衛門の小姓として参陣していたが、高崎藩の剣術士内藤儀八と斬り合い、右手を斬り落とされ、左手一本で切腹した。享年13歳辞世の句が懐にしたためあった「なきがらはほどなく土にかわるとも 魂はのこりて皇国を守る」
久慈の山「回天」のお神酒

2.高崎藩士戦死之碑
高崎藩本陣近くの西原間道脇に、明治26年下仁田戦争30周年を記念して旧高崎藩士が中心となって激戦地の一つである岩下合戦の地に建立した追討碑。碑文は勝海舟の筆

高崎藩本陣跡
下小坂の名主であった里見治兵衛宅に本陣を敷いた。弾痕が残る土蔵があり日を偲ばせる 門は有形建造物指定を受けていた

3.大曾根繁蔵の墓 梅沢峠の物見をしていたが、下小坂関口付近で高崎藩士遭遇し、戦死した。傍らには、水戸の志士の鎮魂と当地の厚志を謝し、水戸の梅樹が献木されている(下仁田資料館解説)。しかし、梅の木は見当たらず、黒沢さんは何度植えても枯れてしまうという。

4.伊勢山 武田耕雲斎の次男、武田魁介率いる一隊は、伊勢山の尾根伝いに熊野山突端まで移動して、初め小幡藩の旗を掲げて高崎藩を油断させ、崖上から高崎藩本陣に銃撃を加えた。これを契機に高崎藩は敗走する。伊勢山を東に進むと小坂坂峠に至る。小坂峠には加藤浩一元水戸市長の献碑がある。
伊勢山登り口 伊勢山庚申塚 小坂坂峠案内 加藤元市長献碑
小坂坂峠切通 小坂坂峠取り付き 道祖神

5.山際公園 下仁田警察署の近く、明治33年(1900年)に旧水戸藩士の呼びかけで建立された義烈千秋の碑および平成4年(1992年)水戸回天神社創建20周年記念事業として建立された維新之礎碑が建つ。
山際公園天狗党史跡 義烈千秋の碑 維新之礎 山稲荷神社鳥居

6. 本誓寺と久保田藤吉・斎藤仲次の墓 本誓寺は伊勢山の真向かいにあり、浄土宗の寺である。下仁田戦争での高崎藩士36名の戦死者を天狗党・武田耕雲斎は仮埋葬した。翌日高崎藩士の遺族に引き取られた。安導寺の激戦で戦死した天狗党・久保田藤吉、斎藤仲次の墓があり、今でも当寺の檀信徒により供養されている。佐川一信元市長による梅樹2本が繁茂している。
本誓寺入口 天狗党由来 案内 両名の墓

黒沢さんの案内で天狗党の史跡を回っていると、小説の舞台に自分が立っている気分で天狗党や高崎藩の戦さぶりが手に取るように理解できた。天狗党4名の墓は作りが同じである。墓前に久慈の山「回天」が供えられていた。黒沢さんによると、昨日は埼玉の方が訪ねてきたという。下仁田の皆様が天狗党4名の墓を大事に供養されていることに感謝である。

藤田小四郎 筑波山での旗揚げ
加波山旗立石 加波山神社





    


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