隠岐諸島 歴史とジオパーク回廊


期間:2018年5月31日(木)~6月2日(土)



報告:渡辺

 隠岐諸島は、島根半島の北方約50キロに位置し、島後といわれる隠岐の島(隠岐の島町)と島前といわれる中ノ島(海士町)・西ノ島(西ノ島町)・知夫里島(知夫村)の㈣島に大小約180の無人島から成り立っている。本州から見えるのが知夫里島で、四つ合わせて琵琶湖の半分くらいの面積で、人口は2万1千人前後である。中ノ島の海士町の町長は斬新な企画を打ち出しマスコミにも度々登場する有名人であるが、この春に引退した。余りにもやり手であったので後継者が中々出なかったというオチがある。島後の隠岐の島が一番大きく人口も1万6千前後という。島の85%が山林で、うち60%超が松と杉の人工林という。県木でもある黒松は松くい虫の被害にあってほとんどが立ち枯れている。産業は四島とも漁業と農業である。イワガキの養殖は、隠岐の島(四島)が発祥の地である。漁業は移住者の若者で成り立っているが、農業は老齢化が進み耕作放棄地が目立つ。アクセスは高速船やフェリーのほかに隠岐世界ジオパーク空港が開港して、ジェット機(76人乗り)が就航している。隠岐諸島は火山の島で約500万年前に火山が噴火して、その後中心部が陥没してカルデラとなり、外輪部分が島前三島である。約1万年前に海面が上昇して現在のような離島になった。隠岐諸島は昭和38年に「大山・隠岐国立公園」に指定され、平成27年には世界ユネスコジオパークに認定された。隠岐は、後鳥羽上皇や後醍醐天皇などの配流の島としての史跡や古墳群、赤壁と風光明媚な海岸線などの大地の成り立ちがみられる様々な風景、しげさ節で知られる民謡と伝説等、見どころたくさんの島々である。各神社の境内には土俵があり、神事や祭りには相撲が奉納されるといい、島後から幕内力士隠岐の海が出ている。西暦800年代から流刑の島として、貴族や高貴な歌人たちが数多く流されその数は3000人にのぼり、小野篁や後鳥羽上皇、御醍醐天皇などが特に有名である。ジオパークは太古の地質・地層に触れる事ができ、海岸を歩いているとジオパーク関する説明板がどこにもある。大地の成り立ちを体感・実感できる。四島とも牛馬の放牧が盛んで至る所で草を食んでいる。
隠岐の島空の玄関 就航しているジェット機 隠岐諸島全景 海の玄関 西郷港

隠岐四島はイワガキの養殖発祥の地であり、サザエやアワビが豊富である。各地でサザエのつかみ取りができるといい、西ノ島では10キロ近い赤イカのつかみ取りのできる時期があるという。またイカのつかみ取りはその他の島でもできるようだ。隠岐の島は旧石器時代後半や縄文時代に使われた黒曜石の産地である。近年、隠岐国分寺跡が確認されたが、そこは後醍醐天皇の在所跡でもある。後醍醐天皇は1年弱で隠岐を脱出し、建武の新政を起こす。隠岐の島町には300以上の遺跡があり、さらに三島にも古墳や遺跡が数多くあり発掘も進んでいる。
隠岐は、大陸とのつながりや対馬海流の影響から動植物に特性がある。オキサンショウウオ、クロキヅタ、オキシャクナゲ、オキアザミ、キンラン、ノダイコンなどの固有種が見られ、またシダ類や地衣類は日本有数の豊富さである。四島にはクマ、キツネ、イノシシなどの大型動物は居なく、野ウサギが一番大きいという。日韓のトゲになっている「竹島」は隠岐の島町の帰属である。四島をつなぐ架け橋はなく、フェリーか高速船を利用しなければならない。

隠岐の島の見どころ
小野篁の在所跡近くの壇鏡の滝 小野篁が在所していた寺の住職がお告げに従って、那久川の上流に行くと鏡が落ちていた。崖の上あったので壇鏡と名付けた。雄滝・雌滝の二本の滝からなり、滝口に「壇鏡神社」が祀られている。オキサンショウウオの生息区域である。
壇鏡神社 壇鏡の滝雌滝 雄滝  オキサンショウウオ

旧那久岬燈台 明治の初め西郷岬と那久岬に燈台が設置され島後水道の安全航行を見守っていた。昭和の初め新しい灯台に切り替わったが、歴史ある灯台として保存している。
旧那久燈台  現在の燈台  この灯台のある地質・地層はジオサイトである

福浦トンネル 明治の初めに波蝕棚を手掘りで人が歩けるだけのトンネルを掘り、明治34年に荷馬車が通れるようにダイナマイトを使い、昭和の初めには車通れるようにと重機を使って拡張する。現在は山をくりぬいた最新のトンネルになったが、技術の変遷が観られる「土木遺産」に指定された。
ちょっとわかりづらいが旧福浦トンネル

ローソク島  高さ20mのローソクの形をした奇岩、先端に夕日が重なるとローソクに灯がともったように見える。福浦港から夕陽に合せて出港する。この日はうねりがあって外洋に出たら縦横の揺れ、船酔いや気分消沈やら散々なクルージングであったが、薄曇りの中夕陽がローソク岩の上に差し込みベストショットとはいえないがナイスショットは撮れた。
ベストショット(はがき) ナイスショット 周辺の奇岩 地層 夕陽が落ちる天使のはしご

モーモードームの牛突き  年8回の牛突き大会がある。モーモードームでは観光牛突きが行われている。牛飼いが高齢者になって現在は54頭の牛が大会を盛り上げているという。観光牛突きでも一度戦うと3週間牛を休ませるという。本気ではないが迫力のある牛突きである。
モーモードーム 牛突き相撲 角突き合い 土俵入り

後醍醐天皇在所跡 発掘が進み隠岐国分寺跡が確認され、その史跡は醍醐天皇が1年弱住んでいたという在所跡である。
後醍醐天皇在所跡 隠岐国分寺跡 国分寺跡=在所跡 再建された隠岐国分寺

赤崎岸壁  福浦港を出ると右手に切り立った岸壁が現われる。酸化した岩石が赤味を帯び様々な地層を見せている。畳を折り重ねたような岸壁が印象に残った。
クルージング船 ジオサイト 複雑な地層 断層がはっきり

水若酢神社 水若酢神社に関する古文書は焼失して謂れは定かでないが、祭神「水若酢命」は地方神である。本殿は国の重要文化財指定で隠岐造りといわれる独特の様式である。屋根の切妻は出雲大社、向拝は春日大社、柱は丸みを帯びた伊勢神宮造りこれらの造りを隠岐造りという。境内には水若酢古墳群と称される古墳時代後期の古墳2基が遺存されている。
水若酢神社境内 拝殿 本殿 移築復元された庁舎

玉若酢神社・八百杉、億岐家住宅・宝物殿  玉若酢神社は創建の年代は不詳である。玉若酢神命はこの島の開拓にかかる神と考えられ、地方神である。当社の宮司を代々勤める神主家の億岐家が玉若酢神命の末裔とされる。本殿・随身門・億岐家住宅の3棟が国重要文化財に指定されている。八百杉は、樹齢1千年とも2千年ともいわれ、若狭から来た八百比丘尼が参拝の記念に植えたもので、3本あったが現在は1本という。800年後の再訪を約束したことから八百杉と呼ばれる。
玉若酢神社随身門 八百杉 拝殿 本殿

かぶら杉・乳房杉  島後最高峰の大満寺山中にある杉の巨木である。かぶら杉は枝分かれがカブに似ていることから名が付き、乳房杉は乳房のように垂れ下がった枝がそのように見えることから名が付いた。足元には大満寺山の冷気が風穴から出ていて心地よい。絶滅危惧種のキンランの花を見つけた。
バスの中からカブラ杉 乳房杉 説明版 絶滅危惧種 キンラン

佐々木家住宅  佐々木家は、その遠祖を宇治川先陣争いで有名な佐々木四郎高綱と伝え、隠岐島後の東海岸に位置する旧釜村で代々庄屋を務めた家柄である。建物は国の重要文化財に指定されており、予約すれば食事がいただける。押しずしと煮物が美味しい。屋根は杉皮葺、玉石が600個以上乗っている。入口は3つあり身分に応じて使い分けする。
佐々木家屋根 玄関 解説版 佐々木家昼食

屋那の松原・舟小屋群  杉皮葺に置き石を置いた小屋が連なって港に建てられていたが、舟がプラスチックになってから保存する必要がなくなり、最近は少なくなっている。都万に舟小屋群が残っている。松原は八百比丘尼が一晩で植えと伝えられている。
やや分かりづらいが民家の左側に舟小屋群

中ノ島の見どころ
後鳥羽上皇在所跡・火葬塚・村上家・隠岐神社  後鳥羽上皇は承久3年(1221年)時の執権北条義時追討の声を上げて戦った乱で敗れ、隠岐に流され19年間隠遁生活を送り60歳で生涯閉じた。望郷の気持ちは亡くなるまで続いたといい、在所跡はお寺(源福寺)の敷地で余りの狭さに歌を詠まれたという。火葬された所は火葬塚として宮内庁が管理している。明治6年明治天皇の命により大阪水無瀬神宮に合祀された。火葬塚に入るところに「綱掛の松」がある。当時は海がすぐそばまで迫っていた。村上家は後鳥羽上皇の身辺警護と監視をしていた隠岐有数の旧家である。後鳥羽上皇は死に際し、領地の相続のことを「後鳥羽天皇御手印置文」に残されている。今も昔も相続は悩みの種だ。隠岐神社は昭和15年、島根県が紀元二千六百年記念行事として創建した。
後鳥羽上皇在所跡説明 綱懸けの松 火葬塚 御在所跡(源福寺)
この敷地内に歴代天皇の皇太子時代の御手植えの松がある。しかし現皇太子のはないという。いろいろ諸説はあるようだが、御手植え松が枯れたりしているのを見て考慮されたのかも。
隠岐神社 珍しい狛犬 子供がいる 後鳥羽上皇遺言 綱懸けの松 現物

明屋海岸 赤崖とエメラルドグリーンの海のコントラストが美しい。女神がお産をしたという伝説が残っており「たらい岩」と「屏風岩」が海面に浮かんで見える。
赤崖は風蝕と海蝕で現在の形になった。溶岩が酸化した赤は異様なまでの赤である
海岸崖は格好のジオサイトで興奮の極みである。
明屋海岸案内 遊歩道 酸化した溶岩 奇岩 ハートが見える
中ノ島には、小泉八雲が滞在した岡崎旅館の跡地(八雲広場)や標高164mの金光寺山からの展望、島の最南端にある木路ケ埼灯台(夕日スポット)などの見どころがある。

知夫里島の見どころ
隠岐四島で一番小さい島で人口も600人とか。ここは太古の地層「赤壁」の1キロにわたる景観である。
知夫里島全景 牛を泳がせて対岸に渡した跡

赤壁海岸線  知夫里島の西海岸にある高さ50~200m、1キロにわたる大岸壁である。へびがのたくったような文様の地層が特徴で、鉄分を含んだ玄武岩や凝灰岩の赤、黄、黒、白など色鮮やかな絶壁である。崖の上からも海上からの眺めも堪能できる。
1キロにわたる赤壁海岸 奇想天外の地層

島津島  無人の島でここの渡津神社は、古代から平安時代にかけて日本を代表する海上航路の神社である。この付近には弥生~古墳時代の土器が多数出土している。またこの島は、生痕化石のでるジオサイトである。海底が隆起して現在は崖になっている。アナシャコの棲み処である穴が見られる。
知夫里島のその他の見どころは、赤ハゲ山。この山頂から島根半島や大山まで360度の大展望が楽しまれ、島前カルデラが一望できる。
渡津神社説明板 渡津神社 ジオサイト説明板 太古の海底地層

西ノ島の見どころ
赤尾展望所  国賀海岸一望できるスポット。周辺は放牧地で牛馬がのんびり草を食んでいる。摩天崖や通天橋の海岸美が素晴らしい。
展望所からの摩天崖 方位盤 豊かな放牧場

摩天崖  海抜257mのナイフで切り取ったような絶壁。海食作用によってできた崖では日本有数の高さである。摩天崖から通天橋、国賀海岸まで遊歩道が整備されている。
摩天崖全貌 摩天崖からの海岸美 のんびり放牧ウマ 日本軍の監視所跡
摩天崖全景 通天橋上部 通天橋上部の放牧場 摩天崖トップヒル

通天橋  溶岩の層の上に火砕流の土砂が堆積し、さらに溶岩が重なったと言われ元々洞窟であったところが海食作用によってもろいところが崩落して、洞窟の一部分を残してできたアーチ状の景勝地で、いずれは全部崩落するだろうと言われる。
国賀海岸の景色 通天橋穴の上の白い部分火砕流跡

イカ寄せ浜・由良比女神社  神社の前の入り江は10月から2月にかけてイカの大群が押し寄せ、手掴みでイカがとれるという。いつ来るか分からないので監視する番小屋がある。1匹10キロ超のイカもあるといい、市場に出すと数万円の小遣いが稼げる。由良比女神社は隠岐国一宮に定められ、海上守護神として島民の信仰を集めている。石塔の台座には鯛が彫られ、拝殿の欄間には9ハイのイカが泳いでいる。
イカ寄せ浜と番小屋 鯛がいる灯明 由良比女神社拝殿 欄間のイカ9ハイ
西ノ島には、後醍醐天皇が島後から脱出して隠棲した黒木御所跡、鳥羽上皇が隠岐への航行中に遭難しかけた時に御神火に導かれて助かったという焼火神社などがある。

 隠岐四島はそれぞれに魅力がある。多くの史跡と大絶壁が連なる海岸、緑豊かな放牧地、大地の成り立ちが分かる壮大なジオパーク、陸からでも海からでも楽しまれる景勝地良いとこ取りである。今回はできなかったが、次回は四島またに架けるトレッキングを愉みたい。

日時 平成30年5月31日から6月2日(2泊3日)
費用 常磐線込み 約10万円
服装 長袖か半袖かで悩んだが初日は長袖、2日目半袖に薄いブレーカー、3日目長袖
ツアー クラブツーリズム 単独申し込み(19人参加で単独申し込み男は自分を入れて2人、他は妻帯)
行程 羽田―伊丹―隠岐世界ジオパーク空港 島内はバスと船


隠岐諸島 歴史とジオパーク回廊

隠岐諸島 写真集


羽田空港伊丹行き 壇鏡の滝入口 森閑とした境内 壇鏡の滝 裏見の滝
のんびり草を食む 水若酢神社入口 隠岐の島と黒曜石 隠岐へ来ただろう丸太舟
オキノアザミ ローソク島と刻々と変化する夕景 うねりで船は木の葉のように揺れる
隠岐あいらんどビパークホテル 夕食 付近の海幸港 ホテル全景
水木しげる鬼太郎 西郷港フェリー 西郷港 高速船 西郷港全景
中ノ島へ 畳み込まれた地層 灯台と絶壁 フェリーからの型式 隠岐神社(中ノ島)
隠岐神社の神輿 隠岐神社のユーカリの大木 後鳥羽上皇年譜
こんな法律知っていた 中ノ島 菱浦港 知夫里島 島津島停泊場 ひょうたんの木
由良比女神社本殿 西ノ島 美田港 隠岐の島 牛突き 隠岐国分寺山門
ダイモンジソウ 佐々木家住宅 神社の庭 御幣かな
ローソク島 ベストショット(はがき)



    


トップに戻る      山行記録に戻る